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東方や初音ミクの文化的持続可能性 / ニコ生思想地図「『おもしろい』をセカイに広めるには」東浩紀×川上量生

ニコ生思想地図「『おもしろい』をセカイに広めるには」東浩紀×川上量生」(ニコ動)(概要)を見て思ったこととか自分なりの解釈のまとめ。

とにかく自分の興味は、初音ミクや東方の盛り上がりがなぜ起きたのかという点にあるので、前半の文化の持続可能性の話は大変興味深かった。
東さんはきっぱりと、今のようなハイコンテクストな状態が続くと、そのうちオタク文化は滅びるだろうと述べた。

「他者を必要とするモチベーション」が初音ミクや東方を膨張させた

消費者とクリエイターの存在自体が、人々の「他者を必要とするモチベーション」を増大させ、それによって生み出された作品や人によってされに人が集まり・・・の連鎖。初音ミクや東方の盛り上がりはそういった連鎖の構造によるものではないのか、というふうに自分は解釈した。


説明のためにモチベーションを2つに分類する。
・他者を必要とするモチベーション(ハイコンテクスト的)(二次創作的)(他者と共有された何か)
・他者を必要としないモチベーション(自己の内に閉じているモチベーション)(オリジナル的)

他者を必要とするモチベーションの例:
クリエータ:「初音ミク?まあそれなりに好きだけど・・・。でもやっぱり、人がたくさん見てくれるし、あわよくば歌ってみたとかに発展する可能性もあるから、初音ミクで曲を作ろうかな」
消費者:「実はその曲おれも聴いてるんだよNE!」

自己の内に閉じているモチベーションの例:
クリエータ:「初音ミクにこの歌を歌わせたい。だから俺は初音ミクのためにこの曲を作った。そして彼女に曲を歌ってもらう」
消費者:「初音ミクはなんてキュートなんだ・・・。それにこの歌も感動的だ」


インターネットは「他者を必要とするモチベーション」(ハイコンテクストなもの)を増大させる性質がある。
ネット空間では均質だったはずの人々の視線の磁場を、ある一点に集中できる。リアルな空間で事件が起きても、そっちを振り向くのはせいぜいその場にいる数百人かもしれないが、ネット空間は万単位の巨大な視線を可視化・数値化し、人々にその巨大な視線を意識させる。さらに、本来あちこちに散らばっていた強い文脈(ハイコンテクスト)な領域も、その機能性(ニコ動でいえば、タグやカテゴリ)によって接続され、視線をさらに高密度に寄せ集めることができる。


初音ミクもまた、ニコニコ動画で人々の視線を集めた。
最初から巨大だったわけではなく、まず少数の人に注目された。まずは、初音ミクに比較的純粋な興味を持つファンがつき、比較的純粋な興味による創作が行われた。そこでは「自己の内に閉じているモチベーション」による創作が多く行われたと思われる。実際、昔は今に比べ、初音ミクの内面について歌った曲が比較的多かった。あるいは初音ミク(ボカロ)である必要性がある曲が多かった。
そこで作られた良作によって初音ミクへの視線はさらに大きくなる。
この激熱な視線を嗅ぎつけて、「他者を必要とするモチベーション」が比較的強い音楽クリエイターは、自然にそこへ流れてゆき、そこで活動をする。まあ、そこまで他人の視線に頼りきったクリエイターは極端な例だけど、これは1か0の話ではなく程度の問題で、もちろん、どんなクリエイターだって「他者を必要とするモチベーション」を一切持たないことはない。多少でも持っているからニコ動に投稿するわけで。

このようにして、初音ミクの登場と同時期に現れた超純粋なファンを中心として、そのファンや彼らが作り出した作品への強い視線というインフラ(モチベーション)をベースにして、さらに二層目のクリエイターや消費者がつく。彼らの動機がどうであれ、作品の総数が増えれば必然的に良作の総数と視線は増える。良作と視線が増えればファンが増える。ファンが増えれば視線が・・・というふうにして、初音ミクへの注目が集まるほど、またさらに三層、四層と雪だるま式に膨らんでゆく。視線が大きければ大きいほど、「他者の視線を必要とする」クリエイターが集まってくるので、膨張の連鎖が起こる。

初音ミクや東方が膨張したのには、他にもいくつかの原因が考えられる。そもそも原作が良いとか、キャラの規定の緩さとか、匿名性だとか、法だとか、いろんな議論がある。

ともかく、こういった「他者を必要とするモチベーション」による連鎖があまりに加熱すると、いつか熱がさめたときに、他者の視線のインフラを頼りに築き上げていたものがボロボロと崩壊するのかもしれない。初音ミクや東方の音楽なんかは、そこまでハイコンテクストにならないのかもしれないが、例えば東方の二次創作小説の、さらにその三次創作で、実はその作品は別の作品のあのキャラがうんたらかんたらで、ともかく俺たちにはそれが分かり合えて、熱くて、濃くて、とても楽しいんだぜ・・・のようにハイパーコンテクストになると、その時はその人達にとっては面白いかもしれないが、それをとりまく文脈や人が消えたときには、東氏が言うように、ほとんどの価値・意味・理解が失われてしまうから、それは長期的に見たときに文化として残りにくい。



こういった現状が問題か問題でないかは、両方メリットとデメリットがあって、しかも(東さんが言ったように)人の嗜好によるので何とも言えない。仮に東さんのように、文化が残されるべきものだとする立場からすると、今の現状は問題に写るのかもしれない。

しかし自分はこれ見て、単純に「各自が好きな方向性でやればいいよ」と言って見過ごせない違和感があって、それが何なのかを考えてみた。


ライトクリエイターの増加と「他者を必要とするモチベーション」の蔓延/それがもたらす全体の動物化

その違和感とはたぶん、「他者を必要とするモチベーション」(ハイコンテクスト)の蔓延が、「大きな物語」や純粋なオリジナルの可能性を打ち消してしまう性質があるからではないかと思う。



ネットや技術の進歩によって誰もがクリエイティブなことに簡単に参加可能になった。
例えば、ニコ動やpixivで誰もが気軽に作品を多くの人に見てもらえる機会・チャンスを与えられた。作曲や動画作成においても、昔はプロしか手にできなかった機材やソフトウェアが手頃な価格で手に入るようになった。

こうしたクリエイターの増加・大衆化は、普通に考えると、まあ、素人は素人でやればいいし、すごい人はすごい人でやればいい・・・みたいになると自分は思ってたが、どうやらネットではそうはいかないみたいで、変な形で融合してしまったように見える。


イラスト投稿サイトのpixivを見てみると、初期の頃はオリジナルな絵がたくさんランキングに見られた。しかし、時間が経つと、みんなが知っているような、一般受けの良い二次創作系や共有されたテーマを持ったハイコンテクストな作品があふれだした。

昔は、クリエイターといえば、そこそこガチな人が多くて、「俺は自分の中にあるこれを表現したいんだ」みたいな人、あるいは、そもそもネットが存在しない(コンテクストが存在しない)空間においては、自分が表現したいものをただ表現するしかなかった・・・その真相はどうかは知らないが、少なくとも、近年の気軽に参入したライトなクリエイター達の多くはそこまでヘビーに構えていないだろう。

さらに、ライトクリエイターの多くはそこまでの実力を持っていない。pixivの新着イラストやニコ動の再生数1000に満たない動画の数の比率、などを見れば明らかだが、ネット上に存在する作品(クリエイター)の大部分はいわゆる「底辺」層で満たされている。ランキングに載るような人はごく一部であるということ。

では、実力のない彼らはどうやって自分たちの欲求を満たすのか。

そこで、他者の存在に頼り始める。それにはいくつかの方法がある。例えば、お気に入りユーザに入れ合ったりだとか、コメントをつけ合うだとか、いわゆる「馴れ合い」と呼ばれるものがそのひとつである。馴れ合いという響きはあまりよくないが、現実の人間関係がそうであるように、適度な距離を保てば、お互いモチベーションの維持につながるので健全といえば健全な方法ではある。twitterのフォロー返しも似たようなところがあるのかもしれない。極端な例になると、そもそも創作にはあまり興味がなくて、人とのふれあいそれ自体が目的になっている人さえいる。また、共通のテーマ・文脈を共有することも他者の存在に頼る方法のひとつとして有効。極端な例を示すと、「とりあえず東方で作っとけばある程度の人が見てくれるだろう」みたいな。

重要なのは、ネット全体で見たとき、底辺層やライトクリエーターの比率がはるかに多いということ。そして、彼らは自然に他者と結びつき、そのコンテクストを自然に増幅させてゆく。そして大多数の人が作り出す、巨大なコンテクストにその空間が支配されたとき(例えば、pixivが大量の二次創作やひとつの共有されたテーマであふれかえったとき)、「他者を必要としない」絵を書いていたクリエイター(「自己の内に閉じているモチベーション」によってオリジナルを創作していたクリエイター)がどう思い、どのような行動をとったかである。

ひとつ考えられるパターンとして、そのコンテクストの流れに自分自身も参加してしまうということ。東方が嫌いというわけでもない、むしろどちらかという結構好きな方、だけれども、本当は東方よりも描きたいオリジナルの大きな世界観を彼は持っている。けれども、東方を欲している人はすぐそこにたくさんいる。ランキングにも東方がたくさん。東方で描けば多くの人が絶賛してくれる、オリジナルでやるよりは確実に。話にも加われる。今、確実に、利得を得ることができるのは、とりあえず東方。となってしまう。

このようにして、「大きな物語」「自己の内に閉じているモチベーションが生み出す作品」が出てくる可能性を狭めてしまっている気がする。

インターネットやテレビのない時代は、文脈の接続が今ほどできないので、他者を必要とするハイコンテクストなものはあまりなくて、自己の内にある「本当に自分が表現したい何か」に対してもっと真剣に向き合えたのではないか。




ところで仮にこれを問題とする立場から見たとき、こういった問題はアーキテクチャによってある程度は解決できる問題でもある。
すごく単純な話で、pixivの場合だと、ランキングを二次創作とオリジナルに分けるだけでも全然違うと思う。
番組の途中で、モチベーションの定量化の話があったが、こうしたアーキテクチャと人々のモチベーションや行動との関係はすごく気になる。